地雷注意の看板(左)と地雷撤去後の看板(右) 地雷と隣り合わせの生活をしている

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y.canata '09.12.26

教室の子どもたちの目が澄んでいるのが印象的

訪問団にVサインで応える子どもたち

カンボジア紀行 支援訪問記

日本の絵本を手にする子どもたちと友岡さん

ソーラ発電の灯りを手にする友岡さん

 平成21年11月17日(火)から23日(月)まで、カンボジアの孤児院や学校を支援訪問した訪問団の一員 友岡 純一さんの「カンボジア支援訪問記」です。

 この村の人口900人の中の4割ほどが、自分の土地を自分で耕している土地持ち。残りの人は土地がなくて1日いくらで農作業をしています(1日3ドルくらい)。今が一番忙しいようで、ちょうどトウモロコシ、稲の刈り取り時期でした。4月ぐらいまでは仕事があるが、4月から雨季になるので、その時があまり仕事がないということでした。貧しい村の中でも、さらに貧しい30世帯ほどに、持って行った衣類などを配りました。服も1枚しか持っていないらしく、この服も元は白だったんだろうなとか、あちこち破れているとかいう状態でした。

 今回で15回目の訪問になります。99年に初めてカンボジアに足を踏み入れて丸10年です。11月17日(火)に福岡を発ち、バンコク経由でシェムリアップに到着したのが夜の7時。食事をして、シェムリアップのホテルに泊まりました。
 シェムリアップはアンコールワットがある街です。翌日、早朝に普通の乗用車でカムリエン州というところまで約4時間。これは舗装道路でした。西へ道が伸びていますが、はるか彼方まで一直線で、20キロメートルぐらいあるような道を走り、カムリエン州に入りました。そこで日本のNPO法人テラ・ルネッサンスのスタッフと合流しました。そして車を4WD(4輪駆動車)に乗り換えましたが、これからが大変でした。雨季のために道が川になったようなところを土で何とか埋めて通るというようなこともあり、延々とゆられて目的地近くの町まで丸一日かかってたどり着きました。窓は閉めていても埃(ほこり)が入ってきて、喉がカラカラ。のど飴をなめながらの車中でした。

タイから戻る農民 表情は明るい

農作業に向かう村民

地雷の犠牲者 義足のご婦人

学校の授業風景

 今後の支援対象として、今回のプレアプット村にしばらくこだわろうかと思っています。

 学校に行けない理由の中で、机がないから行けないというのがありますが、単に机だけが必要というのなら、我々の力で何とかなるんじゃないかと思っています。あとは、せめて井戸。手足を洗ったりできるように。その次はトイレ。そしてあともう1つぐらい教室がほしい状況にあると思います。そういうことで、目標を立てて、少しずつ整備をしていくことにします。

 ゴミ箱があれば、ゴミ箱にゴミを入れるという習慣がつく。そもそもゴミをゴミ箱にという習慣がない。これまではそれでもよかった。天然のものを天然に返す、畑に返していくという暮らしでよかったが、化学製品のナイロン袋やプラスチック製品などになるとそうはいかない。永遠に残る(自然には返らない)。

 帰りがけに、村長さんに4本のほうきと塵取りとゴミ箱を買って、各教室に置いてくれと頼んできました。学校の横手のゴミ捨て場のゴミを選別しながら、私がせっせせっせと集めて燃やしていたら、それを見ていた子供たちが自主的に手伝い始めました。そういう習慣をつけるためにも、ほうきやゴミ箱をきちんと与えることも大切なことではないかと思っています。日本でも通じることですが、まずは大人がやってみせる、ここでは言葉も通じないのに、その姿を見てお手伝いする子供が出てきました。これまでに無かった整理整頓や掃除などの習慣が、次に行ったときにはきちんと身に付いているのではないかと思っています。

 この村をひとつのモデルとして、些細なことからでも村おこしにつなげ、就学率もあがり、生活の底上げにつながっていけばいいかなという思いから、当分この村にこだわってカンボジアの支援を進めて行こうと思っています。(友岡 純一)
 次にヘルスセンターという診療所のようなところに行きました。ドクターが1人、男性の助手が2人、まかないなどをされる女性が1人いました。ドクターの部屋と待合所、診察室が2つ 計4部屋ありました。ここでは持参したソーラーパネルを、テラ・ルネッサンスのメンバー(1人)のサポートを得て取り付け、ドクターの部屋と待合室と奥の診察室の3部屋に電気(12V 20W 3個)を点けました。彼らだけで取り付けやアフターメンテナンスができるようにと、教えながらの作業でしたが、もう1回ぐらいの経験で十分に作業ができるようになりそうです。
 徒歩でタイまで行けるほど、タイに隣接しています。朝から出かけ国境を越えて1日働き、また夕方帰ってくるという暮らしです。どういうことかというと、タイとカンボジアの経済格差がここに現れています。だんだんとタイ国民が、3Kの仕事(きつい、汚い、危険)を嫌いだして、カンボジアの人に任せるようになっています。日本と東南アジアの経済格差がどうだこうだといいますが、東南アジア内部で格差があり、その根深さがカンボジアとタイの隣同士にもあります。
 村のあちこちには地雷原があり、学校近くの裏山にも地雷注意の看板がありました。また、これから向こうはまだ地雷撤去の未処理地だという看板もあります。結構、村には農作業中などに地雷の犠牲になり義足をつけている人が見受けられました。
 地雷で足を失っただけではなく、仕事を失う、家庭を失う、全てを失うということで、戦争(内戦)が終った今でも人々が苦しめられています。こうやって苦しんでいる人が多いということを現実に目の当たりにしました。

遮断機みたいなゲートの先は隣国タイ

 目的の小学校、プレアプット村のプレアプット小学校は町から1時間ぐらいのところですが、この道行けるの?という不安を抱くような道を右に左に揺られ、やっと着きました。この村には900人の人々が暮らしている。就学対象の子供は220人いて、実際に学校に行っているのは6割。学校に行けない理由は、タイとの国境近くで親と共に出稼ぎに行っているので来れない。農作業の手伝いをしているので来れない。机の数が足りないのでみんなが来ると座れないなどです。

 聞くところによると、この地では最後まで内戦があって、92年まで村で銃声がしていた。山間部では95年まではベトナム軍と戦っていた。そこに野戦病院があってそこで怪我をした人の手当をする、そこで亡くなった人々も多数いた。その野戦病院の跡を学校にしているが、非常に雨漏りがひどいということで、日本のボランティア団体が屋根の修理を終わらせていました。学校といっても雨が漏らない程度の教室が4つあるだけ。もちろん水道もない。水は軒の下に大きな甕(かめ)を置いて水を溜め、それを手洗いなどに使っている。職員室もトイレもない。日本の学校では想像できないような環境の中で、子供たちは勉強をしています。その勉強のお手伝いということで、皆さんから頂いた鉛筆やボールペン、絵本、タオルなどを手荷物で持ち込み、子どもたちに配りました。